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ギャンブル依存症者の話①


パチスロで勝ったら何とかなると思っていたのに、
借金が2500万円になっていた。
(シン)・49歳
 

「俺の方が出ている」という優越感を感じた

 初めてパチンコに行ったのは中学2年のとき、友だちと悪さをしに行く感覚だった。数ヵ月に1回の肝試し的なパチンコが、ギャンブルに変わったのは高校に入ってからだ。学区外だったため知っている人がほとんどおらず、自然と自分と同じようなちょっとはみ出し者と仲良くなって、学校帰りにパチンコへ行くようになった。

 最初は2、3000円勝てば満足していたが、すぐにハマった。勝つ金額が2万、3万と増えていき、自分の台に玉が貯まっていくと左右を見て「俺の方が出てる」と優越感を感じた。実際には買った以上の金をつぎ込んでいたのだが、そんなことは気にも留めず、当時やっていた新聞配達のバイトの1ヶ月分の給料がたった1回で稼げると思っていた。

「今日は学校をさぼって1日パチンコへ行くぞ」と決めた日は、周到に準備した。朝刊のバイトを終え朝ごはんを食べて、学校へ行く準備をして家を出る。途中の角に身を潜め、母が仕事に出かけるのを待つ。家を出たのを見届けて戻り、着替えて軍資金を家捜しする。たんすの奥に母のへそくりがあると知ってからは、そこからよく取った。

 パチンコ屋が10時に開店すると同時に入り、閉店まで打ち続けた。あの赤や黄色や緑や青の、派手なピカピカも妙な安心感があって落ち着くのだ。

 しかし東京の家電量販店に就職が決まり、卒業が間近になると、このままではまずいのではないか?と不安になった。将来こうなりたいと思う未来像が思い描けないまま、親からもらった上京準備費用もほとんどパチンコに消えていた。環境が変われば、自分も変われるのではないか? 今の自分とは違う人間になれるのではないか。何か見つかるのではないか。きっとそうに違いない。そうしよう。そうしなければ……。そんなことを考える自分が情けなかった。

高価なブランド服を買いあさる

 今から思うと、あの頃の依存度は10段階でまだ4か5だった。そこに拍車をかけたのは、コンプレックスと買い物依存だった。

 東京で進学組の仲間たちと集まると、「あなただって真面目にやっていれば大学に行けたでしょう? 中学の頃は私より頭よかったのに」と言われた。合コンに参加しても「高卒の自分はバカだと思われているのでは?」と引け目を感じた。まだ20歳にもなっていないのに、何もかもが中途半端な気がして人生は後悔だらけだった。

 油まみれになって働いているだけではないことを証明し、親の金で悠々自適に暮らしている進学組を見返したくて、高価なブランド品を次々買うようになった。ギャンブルであれ買い物であれ、依存の大きな特徴の一つは、感覚を麻痺させてくれることだと思う。

 高いものを選び、販売員に「背が高いから似合いますよ。格好いい」と誉められると、うれしくてコンプレッスが吹っ飛んだ。こんな買い物ができる自分をすごいと思い、自信が持てた。

 あの頃、同級生たちは、私がコンプレックスを抱えていることなど気づいていなかったかもしれない。みんなよりちょっと大人で行動力があって、羽振りの良い自分を演じているうち、自分でもそれが本当の自分だと思うようになっていた。

 寮費は安かったし、当時はまだバブルの名残があって、残業も月に100時間はできた。それなりの給料をもらっていたので10万くらいはポンと出せたし、足りなければ丸井のカードで10回ローンにすればよかった。

 まずいと思い始めたのは、1年で転職を試みてからだ。当時流行っていたドラマの影響を受け、ツアーコンダクターになりたいと思い退職して一人暮らしを始めたものの、就職先が決まらなかったのだ。ツアコンになるのに必要な資格や準備も知らず、思いつきだけで盛り上がり衝動的に進めた結果で、今思えば浅はかだった。人生をリセットするつもりが出費だけがかさみ、支払日に2万円のローンすら払えない状況になった。

 そんなとき、目に飛び込んできたのが駅前にあるパチンコ屋だった。目が覚めたような感覚で「これがあった!」と思った。幸いにも勝って、その月のローンを返せた。しかし定職もなく、パチスロだけで一人暮らしをして毎月ローンを返済していけるわけがなかった。高価な服も売り払い、結局1年後に田舎に逃げ帰ることになる。

「20万いけますけど、どうしますか?」と言われて

 実家に帰ったものの、すぐに27日の返済日が迫った。これ以上、親に嘘をついて金を出してもらうこともできず、困っていたときに、同じように返済で困っていた友人から「サラ金で金を借りた」という話を聞いた。そうしたら、気持ちも楽になったという。

「サラ金=怖いもの」というイメージで、できれば借りたくなかったが、自分もそれしかないのか? と思った。今考えるとぞっとするが、当時業界大手のサラ金でも金利は50%だった。しかし返済の期日が迫り、他に方法を思いつかなかった。10万借りたら年間15万だから、仕事を始めればなんとかなる。これしかない。そう決めてサラ金の扉を叩いた。

 最初に行った日のことは、今もよく覚えている。とんでもない契約書を書かされるのではないかと思い、手がぷるぷる震えていた。ところが、扉の向こうで迎えてくれたのは、キレイ目のお姉さんで拍子抜けした。笑顔で説明され、すっかり安心し、「20万いけますけど、どうしますか?」と言われたとき、「借ります」と言っている自分がいた。

 店を出たとき、「払わなければ」というとらわれが飛んでいくのがわかった。あの瞬間、自分は一線を超えたんだと思う。

 20万は、あっという間にパチスロと買い物で消えた。正社員の仕事が見つからず不安定な状態で、すぐにリボ払いが苦しくなった。ふとクレジットカードの明細を見たら、カードでも20万円借りられることがわかり、それを返済と生活費に充てることにした。しかし再び20万円借りても、結局パチスロですってしまい、その返済をするためにまた他のサラ金で借りるという自転車操業になって、1年後には返済だけで月3~4万円になっていた。

 パチスロを楽しむのではなく、パチスロで勝ってローンを返済しよう、しなければと考えるようになってからは、歯止めが利かなかった。バイトを掛け持ちするとか、残業をするといった地道な方法では時間がかかる。今すぐ金を増やしたい、それには一発逆転だという発想だったが、現実は借金が増えていくだけだった。

 仕事の金に手をつけることを覚えたのも、その頃だ。集金からちょっと借りて、月末までに返せばいい、と。横領している自覚はなかった。すぐに発覚し、「ゼロからやり直すのか全部払ってやめるかを選べ」と言われ、30万円サラ金で借りて会社に払って仕事をやめた。

 そんな中、さらに借金をして自営の仕事を始めたが、返済のあてはなかった。パチスロで勝って、返済できた月もあった。でもほとんどはマイナスで、気づいたら6、7社からの借金が360万円に膨れ上がっていた。実家に督促の連絡が入るようになり、友人の家に夜逃げした。友人の説得で、親に泣きつくことになった。23歳のときだ。

もう嘘をつかなくていい

 親に対しては、とても正直に言う勇気がなく、少なく見積もって「借金は5~60万円だ」と嘘をついた。肩代わりしてもらっても結局、雀の目に涙で、電話帳で探した名前も知らないサラ金で借りることになった。それしか方法がないと自分に言い聞かせた。

 自営の仕事をあきらめ、就職したが、職場にも督促の電話がかかってくるようになった。1日、2日遅れたときは、どこにでもあるような名字で電話をかけてくる。一週間経つと、サラ金の名前を出してかけてくるようになる。さらに遅れると、「お宅で働いているHさんに30万貸しているが、返済しない。どういう社員教育をしているんだ」とすごむのだ。事務の人も嫌がるようになり、ついに上司に呼び出された。

 表向きはそ知らぬ顔で仕事をがんばり、それなりの成果をあげていた。上司はかわいがってくれていたこともあり、理由を深く聞かず、「借金をきれいにすれば二度と借りなくてすむだろう。契約書とカードを提出しろ」と言って、個人的に500万近く貸してくれた。

 実はこのときも、借金の全額は明かさなかった。これ以上上司に迷惑をかけられないと思ったし、1軒だけだったら、自分で返せるだろうと思ったからだ。でもたぶん本心は、どこからも借金をしないで切り詰めた生活をするのが怖かったのだと思う。また電話帳で危ないサラ金を探すくらいなら、1つだけ逃げ道を残しておきたいという思考回路になっていた。

 その1枚のカードの借金が、1年後には200万円になっていた。それを返済するため、再び会社の金に手を出していくことになった。

 集金の着服、契約書の書き換え、売り上げの操作など、思いつくあらゆる方法で横領を行なった。金のことや不正を隠し通すことに疲れ果てていても、一時も気が抜けなかった。パチンコ屋にいるときだけが、安心できた。パチンコ屋では、誰にも干渉されず、仕事のことも借金のことも考えずにすんで、素の自分になれる。

 あの頃、ときどき泣きながらパチスロをした。パチスロをしなければ楽になるはずなのに、なぜ自分はやめないのか。なぜ今日もここにいるのだろう、と。親、上司、知り合い……。何人もの人に尻拭いをしてもらってはまた借金を作る。父をだましてサラ金に連れて行き、家を担保に入れて700万借りてもらったが、それだけでは足りなかった。金を着服したことが会社にバレて、上司に「もうかばいきれない」と懲戒免職を言い渡されたのは、35歳のときだった。

 懲戒免職にあたり、会社の一室で缶詰になり、領収書を見せながら過去のことをすべて話した。何年も横領してきたので、職場の人はとっくに気づいていたらしい。上司が入れ替わり立ち代わり入ってきて、「気づいていたのに対応しなくてすまなかった」「必ず返済できるから、返して戻って来い」と言われ、涙が出た。改めて計算したら、横領した金と借金の合計は2500万円。呆然としたが、どこかホッとする気持ちもあった。もう嘘をつかなくていい――。それだけだった。

そろそろ少しくらい、自分のために使っていい?

 私の場合、経済的な底つきをして初めて、自分の問題に向き合うことになった。責められて当然なのに、上司たちに温かい言葉をかけられ、こんないい人たちに囲まれていたのに、自分は今まで何をやっていたんだ、と。変わらなければと思った。何度も思って結局できなかったことだが、今度こそは本当に変わらなければと思った。

 しかし、とりあえず稼ぎのよい夜の代行のアルバイトを始め、昼の仕事と合わせて月30万の収入があっても、返済のメドは立たなかった。元上司が「借金を返して戻って来い」と言ってくれたことが支えになっていたが、この泥沼から抜け出すなんてできないと感じ、死ぬことを考えるようになった。

 そんなときである。偶然、同じ代行のバイト仲間が多重債務の整理をしている団体を手伝っていると知った。少しずつ話を聞きだしていくと、まさに自分のようなケースも対象になっていることがわかった。もしかしたら、自分もそこに行けば、何とかなるのではないか? とかすかな希望を持った。

 思い切って相談に行く勇気が出るまで、1年かかった。ギャンブルで作った借金を整理するために相談するなんて、言語道断だと思っていたのに、対応してくれた司法書士や弁護士の人は「なぜこうなったのかは、関係ない。今は生きていけないことは確かなんだから、そこからやっていきましょう」と言ってくれた。責めることなく普通に扱ってくれたことがうれしくて、すごくホッとした。

 そこでは支援グループも月4回やっており、参加する中で、サラ金会社への具体的な対応も学べた。グループで自分の経験を話すことが、他の人の役に立つことを知り、こんなクソ野郎の自分でも、生きていていいのかもしれないと思えるようになっていった。

 返済計画も立ててもらい、前向きな気持ちが出てきた。返済を続け、生活に張り合いが出てきて、支援グループでは相談員の立場になった。

 しかし「喉もと過ぎれば熱さを忘れる」で、返済の額が減ってあと数ヶ月で終わるというとき、これだけ借金を返したのだから、少しくらい自分のためにお金を使ってもいいのでは? という考えが出てきた。

自分はギャンブル依存なんかじゃない

 それまで一線を画していたパチンコ屋が、急に近づいたような気がした。現実味を帯びて行くか行かないかの選択になると、頭から離れず、思い留まるのは難しかった。

 数年ぶりにパチンコ屋の入り口に立ったときは、また以前と同じようになってしまうのでは? と恐怖感があった。しかしいったん始めてしまえば、そんな気持ちは吹っ飛んで夢中になった。罪悪感はあったが、次も、また次もと密かな楽しみになった。

 再びパチスロを始めたことは、支援グループの人には後ろめたくて言えなかった。グループの後に「少し話を聴いてくれませんか?」と言われても、「いや、今日は予定があるから」と断わり、毎月、確認していた家計簿も嘘だらけになった。

 パチスロへ行く回数が増えると、つぎ込む額も増えていく。あるとき友だちと久々に釣りで遠出する約束だったのに、その分の金もパチスロですってしまった。友だちには正直に伝えて断わるつもりだったが、「今月きついなら俺が出すから行こうよ」と言われ、結局話せないまま行ってしまい、そんな自分が嫌になった。

 パチスロが止まっていたときは、嘘を考えたり罪悪感に悩んだりせずにすんだのに、ひとたび始めると、自分を責める回路も簡単に復活する。そこで泥沼に進まなかったのは、ひょんなことがきっかけだった。当時、支援グループの中で「ギャンブル依存」という言葉がよく使われるようになっていて、話の中で「あなたはどう考えてもギャンブル依存ですね」と言われた。行動パターンがそのものだというので、違うことを証明するつもりでチェックリストをしたら、すべての項目に当てはまった。

 焦って「いや、確かにチェックがつくけど、それは前のことで、今はうまくやれてます」とパチスロをしていることを言ってしまった。「やっぱり」と言われ、「いや、やってますが、病気じゃないんです。行っても1万でやめますから。そんなに言うなら今から行って証明します」と熱くなった。

 勝っても負けても、1万円でやめるつもりだった。ところが負けてくると「玉が出るまでやめられない」という気持ちになって、結局、金を下ろして閉店までやり続けた。

 店を出た後に後悔したが、頭は完全に以前の状態に戻っていた。マイナスを取り戻すため翌日は朝からパチンコ屋に並び、出ないので二軒はしごした。2日間ですった金額は15万円。ものすごい後悔に襲われると同時に、コントロールが利かない自分が怖くなった。このままでいくと、また同じことになるのでは? せっかく人間関係もできてきたのに、また騙して関係を壊し、あの嫌な思いを味わうのか? と。

 しかし、もしこれが本当に病気であるなら、治療法もあるのではないか……? 

 それが転機になった。

 いろいろ調べたら、病院での治療ではなく、自助グループというものがあることがわかった。せっかくだからと団体の司法書士、相談員もあわせ合計8人でミーティングに行った。そのときの衝撃は忘れられない。参加者たちは、え? こんなこと言っていいのか? 本当に? そこまで? と思うことを赤裸々に語っていたのだ。

 それまで私は、金を得るために自分がしてきたことを「ちょっと悪さをして」という言葉でしか表現できなかった。人に言ってはいけないと思っていたし、言うことでもないと思っていたからだ。でもそうやってあいまいにして隠したままだと、卑屈になる。それも仕方ないことだと思っていたが、ここはそんなことお構いなしに、正直に話していい場なんだとわかった。自分も言えたら楽だろうなぁ、話したいと思い、ミーティングが終わる頃にはすっかり夢中になっていた。

正直でいることの大切さ

 本当の意味で回復が始まったのは、1年くらいたってからだった。再就職し、人間関係のストレスが増え、つらくなった。前は借金とギャンブルの問題さえなくなったらうまくいくと思っていたのに、いっこうに楽にならなかったのだ。

 そんなとき、自助グループの集まりで、以前体験談を聞いた仲間に再会した。「やめているだけだと苦しいよね。プログラムをしないと」と言われ、ただ自助グループに通えばいいものではなかったのだと知った。

 自助グループでは、自分の体験を話す。かつて「悪さをして」としか言えなかった行動の数々は話せるようになっていたが、その奥にあった自分の生きづらさや弱点については目を向けることができていなかったのだ。

 プログラムをしていくうちに、自分はそれまで誰かの前で正直になったことがなかったと気づくようになった。その根っこは子ども時代からあったと思う。自分は普通の家で普通に育ったと思っていたが、実は家族団欒というものをあまり味わったことがない。父は単身赴任、母は結核で何年も入院していたからだ。私の面倒は近くに住む祖母がみてくれたが、祖母が来ないときは一人でご飯を作って食べた。今日小学校であんなことがあった、こんなことがあったと話すこともなかったし、何か困ったことがあっても親に心配をかけちゃいけないと思い黙っていた。それだけが原因というわけではないが、私は人とのコミュニケーションがよくわからないまま大人になったのだと思う。

 弱味を見せてはならないから、誰の前でも本音を話すことはなかったし、平気なふりをして嘘を積み重ね、本当の自分が見えなくなっていたのかもしれない。この人の前ではこういう自分、あの人の前ではこういう自分と、人によって対応を変え、そんな状態から抜け出したいと思っているのに、どう抜け出したらいいのかわからなかった。

 パチンコ台の前にいるときだけ、ありのままの自分でいられた。そんな自分の生きづらさに向き合わなければ楽になれなかったとわかってからは、何か嫌なことがあったり腹が立ったりしたとき、「何でなんだ?」と自分に問いかけるようになった。正直に自分の考えを言えなかったからだとか、自分の弱点をつかれたからだとかわかると、「なんだ、そっか」と思えるようになって、とらわれることが減った。この調子でもっと楽になれたらいいなと思う。

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