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ギャンブル依存症者の話②


ギャンブルをやめて得たものは、
「このままの自分でOK」という感覚だった。
(野沢・48歳)
 

最初のときの興奮が忘れられなかった

 10代の頃、バイト先の人に誘われ初めてパチンコに行ったときの喜びは、今も覚えています。射幸性の高い「一発台」がまだあった時代で、1回出ただけで1万5000円も儲かりました。当時のバイトの日給は7000円。その倍以上になったので、「これはすごい!」と興奮しました。数日後にはバイトをやめて、朝から晩までパチンコ屋に入り浸るようになっていました。

 今考えても、急激な依存だったと思います。わずか1~2ヵ月の間に、親が「大人になったら使うように」と残してくれた貯金がなくなりました。親の財布から1万円札を引き抜き、家中の貴金属を売り払い、元のバイト先に忍び込んでお金を取ってくる状態になり、それでも足らず丸井のカードでもキャッシングしました。

 稼ぎのよいトラック運転手の仕事を始めたものの、給料は全部パチンコに消えました。ついにサラ金で借りたのが19歳のときです。友人に買い物を頼まれて6万円預かったとき、「パチンコで増やそう」と考えてしまい、結局足りなくなってしまったのです。サラ金なんかで借りちゃまずいと思いつつ、辻褄を合わせるためには他に方法がありませんでした。1回借りてしまえば後はもう同じこと。「どこで借りようが返せればいいんだ」と考え、次々利用するようになりました。

 あの頃は、パチンコをするのがただひたすら楽しかった記憶があります。大半は負けているのですが、たまに大きく勝つこともあって、それがなんとも言えない喜びなのです。一生、パチンコをして食べていけたらいいなぁと本気で考えていました。

 しかしだんだんと仕事に影響が出るようになりました。仕事の人間関係ストレスもあって、朝出勤すると同時にパチンコ屋へ行きたくなってしまうのです。「事故が起きてしまった」「家族が病気になった」「親戚が亡くなった」と嘘をついて、パチンコをしました。サラ金の支払いも遅れるようになって、会社に催促の電話が入って発覚しては辞めるという繰り返しになりました。

 クビになれば反省するし、新しい職場でも始めは「今度こそちゃんと働こう」と思って一生懸命やるのです。それなのに、運転の道中でパチンコ屋があると「ちょっとだけいいかな」「1時間くらい大丈夫かな」と考えてしまい、つい寄ってしまうのです。結局夢中になってしまい、荷物を時間までに届けられずクビになる。最後の会社では、同僚から借金をして、それが払いきれずクビになりました。

 そんな頃です。網膜はく離で片目を失明しました。25歳のときでした。

片目を失い、自暴自棄になって

 網膜はく離の原因は、アトピー性皮膚炎でした。痒みをおさえるために、よく顔面を掻いたり叩いたりと刺激を与えていたことがよくなかったようです。パチンコをしていたら目の前がぼやけてきて、これはおかしいと思い眼科へ行ったときはもう手遅れでした。手術をしましたが、剥離が進んでいて、片方の視力を失ってしまったのです。人生が終わったようなショックでした。

 ギャンブルをして借金ばかりしているから、こんなことになったんだと自分を責めました。もうギャンブルなんてやめよう、二度とすまいと思いました。

 けれども術後、絶対安静が解除され車椅子での歩行が許されると、いても立ってもいられなくて、友達にお金を持ってきてもらい、病院を抜け出してパチンコ屋へ行きました。現実から逃げたかったんだと思います。パチンコをしていると、どこかホッとした気持ちになれて、片目が見えなくなったことも借金があることも考えずにいられたのです。

 退院して実家に戻っても、呆然としていました。もうトラックの運転手はできないし、これからどう生きていけばいいのかわからない。サラ金からは催促の電話が鳴り、父や妹に対応させたり、かかってきそうなときは電話線を引っこ抜いたり。そんな現実を忘れるためパチンコをし、負けると家族にあたり、暴言を吐くようになりました。

 自分の中でそれまで渦巻いてきたいろいろな思いが、一気に出てきたような感じでした。高校受験に失敗し、そんな自分を恥だと思って生きてきたこと。17歳のとき、母親が男を作って出て行ってしまったこと。酒飲みでギャンブル好きの父親のこと。やさぐれて生きてきて、唯一楽しめたパチンコで借金を作り、その挙句に網膜はく離になってしまったこと……。「何もかもおまえのせいだ、金を出せ」と父親を責めました。争いに耐え切れなくなった妹は家を出て行きました。

 周囲には、借金のことは言えませんでした。自分で何とかしなきゃと思い、友人や知り合いに仕事を紹介してもらい、やがて嘘をついて金の無心をするようになり、二度と会えない人たちが増えていきました。当時つきあっていた彼女の貯金にも手をつけてしまい、ますます自暴自棄になりました。

 父が肺がんで亡くなったのは、その頃です。生命保険で車を購入し、残りはパチンコや競艇に消えました。親も死んだし、彼女にも振られる。自分はどうしようもない人間だけど、どうにもできないから、もうどうでもいいや……。そんな自暴自棄な私をみかねた妹が福祉事務所に相談し、生活保護を受けることになったのが31歳でした。

なぜ、そこまでしてギャンブルをするのか

 それから数年は、ギャンブルのことと死ぬことばかりを考えていました。生活保護のお金をもらうと、わくわくして競艇へ行きました。勝っても競艇場の名物を食べて帰ってくるくらいで、100円まで使い切ってしまう生活。帰る電車賃がなくて、よく何時間も歩いて帰りました。途中に大きな川があって、飛び込んでしまおうと思うのですが、結局飛び込めずにとぼとぼと帰るのです。お金がなくてギャンブルに行けなくても、近所から「あの家の人は仕事もせずにギャンブルをしてる」と思われているのではないかと思い、ぎりぎりの時間まで外で過ごし、帰っても電気をつけず居留守を装いました。

 当時、唯一話をすることができたのは、よく面倒をみていた中学の後輩だけでした。彼もギャンブル好きでしたが、真面目なところがあって、借金は作らず、地道に貯金もしていました。「それにひきかえ自分は」と情けない話をしても、「野沢さんは本当にしょうがないですね」と笑ってくれる。そんな最後の友人も、結局は裏切りました。その人がオープンした古着屋で働かせてもらったとき、レジにあった前日の売り上げをスロットに使ってしまったのです。

 それは、客足がまばらな昼下がりでした。暇で手持ち無沙汰になったとき、ふとお金に目がいってしまい、ちょっとだけのつもりでした。この「ちょっとだけ」が頭に浮かぶと、次に浮かぶのは「勝って戻せばいいや」で、そうなるともう止められないのです。2万円とって店を閉めてパチンコ屋へ行き、すぐに負けてしまいました。店に戻ってまた2万円引き出し、また負けて店に戻りという感じで、結局、6時前にはレジは空になっていました。

 夜になり、後輩から電話が来ても、出ませんでした。家までやってきて、「売り上げはどうなった?」と聞かれても、何も言えませんでした。問いつめることなく、なんとも言えない表情で帰っていく後輩を見たとき、申し訳なさと自分への嫌気で怒りが沸いてきました。自分はなぜ、そこまでしてギャンブルをやるのか、と。

 以来、後輩とは会っていません。私はと言えば、食べるものもなくコンビニでお握りを万引きして捕まったりし、「自分は終わった」と思いました。あの気持ちはなんとも言えません。自分が何をするかわからない。でも一方でもうどうでもいいやと思っている。どこまでも落ちていきそうな自分が自分で怖くて、遺書を書いたり命の電話をかけたりする日々でした。

 転機になったのは、思い切って福祉事務所に「生活保護費をギャンブルで使っています。万引きもしました」と手紙を書いたことでした。ケースワーカーさんが飛んできて、クリニックを紹介してくれました。そこで私は「ギャンブル依存」と診断されます。ギャンブル依存という言葉を聞いたのは初めてでしたが、そうなんだろうな、と思いました。それ以外に、こんなふうになっている理由がわからなかったからです。

金銭管理ができない自分が後ろめたい

 クリニックの紹介で、ギャンブル問題を持つ人のための施設に入寮しました。最初の日施設長さんに「ギャンブルを絶対やめます」と言ったとき、「絶対というのはないんですよ」と言われたことを思い出します。今なら「絶対やめる」「ちゃんと生活する」と誓うのは自分で自分を追い込むだけだとわかりますが、当時はなぜそんなことを言うんだろう? と不思議でした。

 施設でのリハビリは、思いのほか順調でした。仲間はみんな同じギャンブラーなので、それまで人に言えなかったギャンブルの話ができて気持ちが楽になったし、自分は1人ではないんだと思えたのです。けっこう楽しくて、あっという間に時間が過ぎていきました。1年半ぐらいでアルバイトを始め、数ヵ月後にはプログラムを修了して、一人暮らしになりました。

 しかし施設から離れ、家と職場の往復する日々は、正直あまり居心地のいいものではありませんでした。職場にいても、何か自分だけがみんなと違う世界の住人のような気がしたのです。人間関係で疲れると、つい食事を豪華にしてしまったり、予定外の服を買ってしまったり。そうなると月末に苦しくなって、食費を削ることになりました。そんな自分に何となく後ろめたさを感じました。

 生活費の半分はバイト代、半分は生活保護費という状況で、すごい贅沢をしているわけでもギャンブルをやっているわけでもないからいいじゃないかと自分に言い聞かすのですが、ちゃんと金銭管理ができない自分に幻滅しました。施設にいたときは、1週間に1万円あれば生活できたのに、なぜこうなってしまうのか。自助グループで「金銭管理が大変なんだ」と言えれば違ったのと思うのですが、正直になれない自分がいました。

 自助グループの仲間の前では、一人暮らしが順調にいっているように見せかけるため、嘘をつくようになりました。苦しくて、「あの人が気に食わない」「ここがひどい」と職場の粗を探し、それを理由に1年で仕事をやめてしまいました。

 気づけばミーティングからも足が遠ざかっていました。手持ちの金がなくなってきて、もうどうでもいいやという考えが出てきて、パチンコ屋へ向かいました。

 その道のりで、仲間たちの顔が浮かんできて、「やったら終わりだ」と思いました。でも、ひとたび台の前に座ったら、そんなことも忘れてしまいました。今から考えると、その日の前から、少しずつ欲求が高まっていて危険域を侵していたと思います。アルコール依存症の人がノンアルコールビールを飲んで「自分は大丈夫だ」と飲酒欲求をごまかすように、それまでは怖くてできなかった携帯のゲームスロットをするようになっていたからです。

 1回本物のパチスロを始めたらとまらなくなり、生活費が足りなくなって、仲間から借りるようになりました。最初は5000円だったのが、1万円、2万円と額が増えていきました。結局、最後は施設に連絡し、すべて話しました。ひどいうつ状態だったこともあり、「クリニックに行ってみようか」と勧められ、そこで医師と話し、他の施設でやり直すことを決めました。9年前、39歳のときでした。

安心できる居場所ができて

 施設の寮に入り、環境が変わったこともあり、私は少しずつ落ち着きを取り戻していきました。1年ほどで仕事について、今は2つ目の施設でスタッフをしています。

 こうして過去の自分を振り返り、改めて思うのは、私は人間関係、特に自分の気持ちを人に話すのが苦手だということです。困ったことや悩みがあっても、認めたくないし、ぎりぎりの状態になるまで「自分だけで何とかしなければ」と思ってしまう。だから苦しかったし、人間関係も仕事も自分からぶち壊してしまうようなことを繰り返してきました。自分をダメな人間だと思ってきたから、人の目が気になっていたんだと思います。

 でも、自分が苦手なことは、「苦手だ」と言っていいのです。誰でも得意な部分と不得意な部分があると受け入れることができれば、できない自分を責めることはないし、自分を隠したり取り繕ったりしなくてすみます。

 私がギャンブルをやめ続けて得ているものは、「そういう自分でOK。そこから始めよう」という感覚です。日々の生活には、嫌なことや予期せぬトラブルがいろいろありますが、「こんなことがあってこんなふうに感じた」「こんなことをしてしまった」と正直に話せる自助グループや施設の仲間たちがいます。とても居心地がいいし、安心できます。

 自分に正直になることに注意を払うようになると、「ここで正直になっておかないと後が大変だぞ」というタイミングもわかってきました。問題が小さなうちなら、解決していくのも早いのです。今はこの生活をなくしたくないし、このままギャンブルをやらずにできる限り続けていきたいと思っています。

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